えんすけっ! 和美と麦茶と琵琶法師

 桂和美(かつら かずみ)は、夏休みに入ってからの数日、連続で川の近くの林道脇にかよって、いつものように筋力トレーニングをしたり、飛んで来る鳥のすがたをウオッチングしたり、過ごしていた。
 期末テストの戦果は、現代文と古文と生物以外そこそこ止まりだったが、あまり気にしていない。
 むしろ、対義語の組みあわせを単純な記号の書き間違いでダメにし、現代文で満点チョット下、の点数だったことのほうが心ダメージだったと言えば、そう言えた。
 川の上を通過して、ヨシの葉の間を抜けて来る風が、汗をいくつかにじませた和美のおでこのあたりに届く。
 和美は、肩をこきこきとみぎひだりに動かすと、少し大きなクヌギの木のこかげに腰をおろすと、ふー、とひと休みに入った。
 朝の8時すぎに家から出て、いまちょうど、11時のちょっとまえ。
 太陽は、林道の木々の真上にのぼっていて、木漏れ日が絶賛まぶしぎキャンペーン実施中である。

「……まだ、あいつら帰って来る時刻じゃねぇからな、昼どうしたもんかな……めんどくせぇゼ」
 小音量ながら、ぐぅぅ、と音の響きが伝わってくるお腹のあたりを手でさすりながら、和美は木の葉ごしに南の空を眺める。
 あいつら、というのは和美がちょくちょく面倒をみてる小学生たちのことで、例の蝸牛な髪型の少女やロボットのことでは無い。
 今日も、あの金魚屋さんの脇に立ってる教会の庭で遊ぶ取り決めをしてるが、向こう(小学生たち)がプールだの習字だのが終わってからの相手なので、まだ時間としては中途半端なのである。
 昼を食べに一回家に戻っても良いのだが、特に冷蔵庫の中にめぼしい食材やら食パンやらも無かったかも知れない、と脳の中で記憶地図の情景が語りかけて来る。
「……んー、あ。買い物いったのも、もう2日前かぁ……」
 それはそれで面倒だなぁ、と考えながら、クヌギの幹にもたれかけた背中をずるずるずるずるっとずり落とす。


「だからと言って水腹はだめですの」
「だぁぁっ!!!!! まだ出たなッ、こらっ、いつのまにかサルドっ!!!!!」


猿戸兎汐


 まぶたのシャッターがあがると同時に、またもや目の前に音もたてずに現われた猿戸兎汐(さるど としお)に向かって、呶鳴る和美。
 はっきりいって、この暑さの中でびっくりさせられては、心臓への負担もマックスである。
「……びっくりして腹の虫も失神しちまうゼ、まったく」
 おしりについた草の葉っぱを払いながらスッと立つと、和美は兎汐にそう言い放ち、その場を立ち去ろうとする。
「あ、そのまま手ぶらじゃいけませんの、お荷物すべて森の精にあげちゃいますの? ご奇特、ご奇特」
「そんなわけねぇだろ、――ちゃんと持って帰りますよ、大、事、な、カバンですゼっ!!」
 秋頃に除草作業か何かで伐られ横倒しに積まれたままの枝のたばの上に置いていたカバンをザっと持ち上げながら、和美がむすっとした顔で答えると、兎汐は特に表情も変えずに和美の真横に近寄って来る。



「猿戸、さすがに夏休みの間は出て来ないと思ってたのに、ついに出没したな……おそれおののくゼ」
「それはお褒めととらえて良いのか、良くわからないおことばですの」
「……猿戸は、夏休みにどっか出かけたりしないわけっ? ナントカ夏期講習とかさっ」
「あーー、琵琶法師の描かれた古絵巻物名品展示会とかいうものでしたら、来週、観に出かけますの。びゃーん」
「えッ? びわ?」
 少しかすれたノドでたずねる和美。
 考えてみると、朝、ここについてからまだ一回も水筒の中の麦茶は飲んでなかった。
「ちょい待ち、少しこれ飲むから」
 水筒を取り出す和美。
「水腹はだめですの、寒飲水毒、寒飲水毒っ!! びゃびゃーん」
「だから、ガブガブは行きませんて、いってるだろ、もぅ……」
 兎汐は、じっと和美の水筒を指さいている。
「あっ、また何か意味ありげにひとの水筒のこと指さしたりしやがって……、また何かやるんじゃないだろな」
 水筒の上下左右をちらっちら見回す和美。
 兎汐は出した指を動かしたりぷるぷる振ったりもせず、そのままの姿勢。
「何もしてませんの、びゃーん」
「その、びゃーんは何だよ」
「来週の琵琶法師のことを考えたら、つい出てしまいましたの、失礼しましたの」
「そぅ……」
「気になさらずに、じゃーっとお出しくださいの」
「そうかぁ……? でもなぁ……、じゃーっと出したら麦茶が真っ赤な色になって出て来るとかないだろなぁ……」
「そんな、そんな」
 首を右左に振る兎汐だが、うっすら笑顔を浮かべてるので、どうもあやしい。
「……ったく、困りもんだゼ、涼しくなるなんてことより先に、ビクッと驚くと心臓に負担が来るんだか……わぁぁぁぁぁッ!!」
 水筒の中から出て来たのは泥みたいな色のとろとろしたもの。
「……やりやがったな……猿戸ぉぉぉ、これもあれかっ? また、手品ですので済ませる気かっ!?」
「ふふふふふ、これは手品ではありませんの」
「……! ついにそれを言い放ちやがったな、じゃあ何か? トントン、ハイとデーモンにでもかしわで打って、魔法で麦茶を変えちまったとでも言うのかよっ!!」
「まさか、まさか、それはもともと麦茶ではありませんの」
 兎汐が笑って言う。
「なにっ?」
「桂ちゃんはこれまでその水筒を一度のんでませんでしたの、だから気づかなかったかも知れませんの」
「気付かなかったって何……」
「まず、その水筒の底を良く見ないといけませんの」
「底……?」
 栓をしめて、くるっと水筒のおしりを拝む和美。
 すると、そこには本来自分の水筒だったら貼ってあるはずの名前を印字した白いテープが存在しなかった。
「あっ、しまった……じゃあ台所に置いて……間違えかっ……」
 眼をこらして、というより、近くに鼻を近づけて、キチンと認識してみたら、泥みたいなものは、黒味噌と酢とからしを混ぜて作っておいたおさしみ用のタレで、和美の家でときどき使われる特製調味料であった。
「ふふふふふ、水筒って、ふつうなかなか間違えないと思うんですの、桂ちゃん家には同じ水筒もあったりするんですの?」
「あるとかないとかって程度じゃないゼ、これとおんなじ水筒なら、ずらり、12本」
「いちダース??」
「教会のバザーにどっかのお店が出品してくれたけどまるまる残っちまってさ、引き取って使ってるからだゼ」
「そ、それは知らなかったですの……、そんなびっくり情報を聞いたら心臓に悪いですの」
 心臓のあるあたりをうすいレモン色のブラウスごしに軽く押さえながら、少し顔をくもらせる兎汐。
「どこがびっくりなんだよ、おい……なんだ、猿戸じゃなくて、こっちが単に間違えただけか……びっくりしたゼ」
「えぇぇぇ……びっくりでしたの」
「だから、どうしてお前がびっくりなんだよっ!」
 和美はそう言いながら水筒の栓を外して、からし黒味噌なタレを水筒の中に戻すと、手に少しついたそれを無造作にぺろっとなめ、コホンと咳ばらいをした。
「んんん――、何でもありませんですのっ、お昼は好きに食べてくださいですのっ」
 いつもは教会の向かいにある鯛焼きやたこ焼きを売ってるお店にまでついて歩いて来たりするのに、兎汐はそう言い残すと、きょうはぴゅーっと駈け出して居なくなってしまった。
 予想外の脱走展開だったので、和美はキョトンとした目でその後ろ姿を眺めて立っていた。
「――うたぐり過ぎて悪いことしたゼ」



 和美が兎汐に対してそんな感情を発していたころ、兎汐は精神をおでこの上に集中させていた。
「……交換こ!! っていいましたけど、まさか11もあったとは思いませんでしたのっ! ……ぜんぶ、配置をモトに戻さないと……」
 おでこの上に一挙に精神を集中をさせる兎汐。
 さすがに慌てのあせりのせいか、魔神焼きを食べるときよりも、集中力が勝っている。
「戻さないと壮大におかしいことになりますのっ!! ……うにゅにゅにゅ……何の中身の水筒がどれとどれに入れ替わったんですのっ、もうっ……!!!? びゃびゃーーん」
 和美が持っているからし黒味噌の入った水筒と、本来持って出る予定だった麦茶の水筒、――それを除いた和美の家の台所のあちこちにキリッと立っているまさかの残り10本それぞれだったが、その日の夕刻、和美と教会の庭で遊んだあと、家について来た小学生たちがちょうど台所の中を「ところてん、ぶちゅーって出すやつどこだーぁ」と、探しまわった結果、ごっちゃごちゃになり、兎汐の苦労は徒労におわったのだった。



(2014.08.03 氷厘亭氷泉)