えんすけっ! 当てはまるものに

「ゴルバチョフ?」
 赤柴水矢(あかしば みずや)は葱耜月世(ねぶすき つきよ)に向かって訊き返す。
 解人高校の教室のちょっとうすぼけたサッシは強い春風にときどきギシギシと音をたててる。

「ちガいますっ、ゴルバ……」
「ほらっ!! ゴルバチョフじゃねぇか」
「だーかーラっ、チがウくって!!」
 オーバーアクションで首をふりふりする月世。水矢はその様子を見てにたにた笑ってる。
「たシかに、語頭で予測シたラそうダけド、ちがうクって!!」
「ロシアの人名は憶えにくいんだよっ、トムとかジョンとかそれくらいにしてくれよ」
 水矢は、開いてた英語の参考書の例文にいた人名をぽん、ぽん、と指で示す。
「ヤポンスキーだっテ、長い名前あルじゃないデすか! 左近兵衛(サコンビョーエ)とかア!!」
「ネブはいきなり用例がマニアックなんだよ、なんでいきなり板垣退助のじじいの名前とか出すんだよ」
「ジじいはしセず」
「く、くっだらねぇ……!! ロシアっ子ジョークはかなりゼロ笑いだなっ!!」
 水矢は笑いながら、とうふのような真っ白いペンケースの中からペンを何本か出す。
「イまのハ、たしかにダめだっタね」
「だいたい、Zって何なのさ……。ほら、牛ちゃん、これを音読してみそ」
 水矢が牛島績美(うしじま うみ)に向かって、ふせんに書いた文字を見せる。
 ぴらっ。
「ぜーた――ごるばちぇにゃ――?」
「ほらみろ、牛ちゃんなかん牛だから舌(たん)がもつれっちゃって発音すら出来てないじゃんか!」
「ソんなことなイじゃナいでスか! 牛ちゃん!! 〔Z・ゴルバチェワ〕でスよ!! ゴルバチェワ!!」
「ごるばちぇにゃ」
「ゴルバチョフ」
 月世は、ちがうちがうちがうーと、また首をふりふりしてる。
「――で、ネブとみずっち何してたの?」
 トイレからの帰還者・績美はふたりをきょろきょろ見渡して訊く。
「わてが、きょうの漢字の小テストに関して、スパイさまに教えを乞うておったのだ」
「あはは、ぜんぜんそういう世界観じゃないんだけど」
 机の上にのっているのは英語の参考書とカラーペン数本と駅弁とかに入ってるあの魚のかたちのおしょうゆ入れだった。
「特にこれは何で出てるの」
「しょうゆって漢字が面倒くさいって話してたら、ネブが出したんだよ」
 月世が魚(しょうゆ中にたっぷりはいってる未使用)をぷにぷにと押す。
 水矢はスッと参考書を遠ざける。
「あっ、それがもしかして、ごるばちぇあ」
「ゴルバチョフ」
「ゴルバチェワですヨお!!!」
 だんだんどれがどれだったかわからなくなる。

「そっかぁ、きょうは漢字テストある日だっけ、まるごと忘れてたよ、あははは」
 績美はそう言いながら自分の机の中から小さい手帳を出してもって来る。
「どこが範囲?」
「牛ちゃんのその悪あがきどころじゃない悪あがき好きだよ」
「やだー、みずっち、悪あがきとか言わないでよ、テスト開始はあとふたつも授業があってからだよ、まだまだどれほど時空が存在してると思ってるのさー」
「牛ちゃん、ココが範囲でスよ」
 月世が自分の小テスト用の漢字テキストを見せる。
「これかー、あー」
 ページ数を手帳に書き込みながら半分困り顔な績美。
「どう考えても悪あがきだろ」
「それにしても、ネブはすごいよね、いまのところ全部漢字の小テスト満点でしょ」
 解人高校では、2週間にいっぺん簡単な小テストが行われてて、葱耜月世はその漢字部門の満点記録をずいずいと更新中であった。
「ネブはそのあたりが、こざかしいよな」
 水矢がそうつぶやくのを横にして、績美と月世は魚のしょうゆ入れをぷにぷにと押してる。
 窓の外には、春の明るい日差しの中を雲が流れてゆく景色が広がっていた。




「字ちゃんと書けた? みずっち」
 漢字の小テストが集められたあとのざわざわする教室の中で、績美がゆびで文字を書くしぐさをしながら水矢に訊く。
「しょうゆのあの〔醤〕の字は、横の線がどんどんどんどん詰まっていく感覚がキモくてやっぱりいやだった」
 水矢のばあい、質問がわからない、という状況よりも〔わかってるけど字が自分の納得のいく良質なバランスで書けなかったこと〕へのイライラのほうが勝ってるので、なかなか問題の根は深い。
 シャーペンを放り出したまま、水矢は机にだらんと顔を横たえて答えながら月世のほうを見る。
「あハー」
 すると、月世も水矢とおなじように机に顔を横たえて、微笑む。
「ネブは? 今回もかんぺきちゃん?」
 績美がそう聞くと、そのままの姿勢で月世はまた微笑む。
「あハー、余はいツもドおりにヤっただケでス」
「そのおどけ顔、しばらくつつしめっ」
 水矢が机をパパんと手のひらでたたいてると、績美は小さな紙袋を持って来る。
「じゃーん、ところでこれはなんでしょう」
「ん? 牛ちゃんがそんなに鼻をぴくぴくさせてるということは、もしや……」
「モしヤ?!」
 月世も水矢も、すぐさま跳び上がって績美をとりかこむ。
 はたから眺めてみてみればコッソリ麻薬とりひきのような光景である。
「ふっふっふ、忍さまの新しい――」
「おォォォおォぉォ」
「うおおおおおぉぉ」
 紙袋の中からは、1枚の小さな紙が出て来る。
「うぉぉぉぉおおおぉぉぉぉ……?」
「なんダか、全然、余にはわからなーい」
 ゆるやかにボルテージがさがってゆく水矢と月世。
「これはー、すごいよ!」
 そう言うと績美は、うすいむらさき色のその小さな紙のおもてめん(?)――文字の書かれてるほうをふたりに見せる。
「おっ、おっ、折口忍さんって書いてあるっ!!」
「わおォー!!」
 わかりやすい燃え上がり方をみせて、ふたたびボルテージをあげるふたり。折れ線グラフで示せば、完璧なVの字の直線である。
 〔折口忍さん〕と書かれてる脇にしるされてる小さいカクカクとした文字を読み拾い出す水矢。
「……もにょもにょしかじか……牛ちゃん、これは何だっ」
「忍さまが身体測定とかのあとに何かで保険室に呼び出されたときに先生に渡された連絡のカミだ!!」
「オォぉォおォおォ」
「……なんだぁ、いつもみたいに忍さま本人の書いた断簡じゃないのかよ――ご本人レベルはゼロだな」
 テンション加速する月世に対し、水矢はすこし息が弱まる。
「おっ、みずっち、ゼロ意味ではないよ、ちゃんと裏っかわには……」
「あ、また牛のイラストだよー、ずるぃーーーーーーーー!!」
 その小さな紙の裏のすみっこには、折口忍による走り描きのイラストが描き添えられてた。
「ずるぃーーーーーー!!」
 そう言いながら、じっくりそのイラストに見入る水矢。


「そうデすか、こういう雰囲気ノなら余もアりまス!!」
「えっ、ネブなにか描いてもらったのか?! この野郎、黙ってやがった!!」
「ちがいマす、こレです」
「あれ、これって先輩さまの本!」
 月世がカバンの奥から取り出して来たのは、悟徳学園の柳田先輩が月の中ごろにつくった伝承妖怪についての個人誌だった。
「忍さマを眺めに悟徳学園に行ったトき、先輩さまからモらったんダよ」
「また知らないあいだにスパイ活動してたんだな、こいつ」
「違いマすよー、あの学校が、とおりみちにあルから、それだけっ」
「で、その柳田先輩さまの本が忍さまにどう関わってくるんだ、ネブ」
「本の間に、これガ挟まっテたんデすヨ」
 すると月世も、績美が持ってきた小さな紙とほぼ同じ寸法の紙を手に持って、ババーンと、水矢と績美に見せる。
「なんかアンケートみたいなもの?」
 紙の上に並んでる縦書きの文字列を目で追い進みながら、績美がたずねる。
 柳田先輩は、電子的に送ってもらってもわざわざプリントアウトする手間がかかる、と言って、アンケート用紙をアトランダムに自分がつくった個人誌に挟み込むことがある。
 月世がもらった妖怪の本に挟まってたのも、そのひとつ。
「なにぃ? ……当てはまるものに……」
 書いてある文字を読み上げる水矢。
「ソの、みっツ目の!! みッつ目の!!」
「三つめ……。ああネブ、これ? 以後、妖怪研究会で主にあつかって欲しい問題が……ございますか……と」
「当てはまるものに……しるしをつけて下さい……?」
「ソれですよォォ!」
 ちからこぶのはいった語気でしゃべる月世。
「こコに〔河童〕が、アるじゃナいですか!! そこにまるつけて、おすいこさまト〔ふりがな〕書いテお送りシましょ!!」
「あははは、ネブってばぁ、そんなのすぐあたしたちがやった投票だって先輩さまにバレちゃうってばぁ――ねぇ、みずっち」
 績美がそう笑って言いながら水矢の顔を見ようと首を動かす。
 すると、水矢はペンで既に〔おすいこさま〕の〔おすい〕まで文字を書いていた。
「えっ、みずっちもそのアンケート用紙もってるのっ?」
 赤柴水矢は、おなじく解人高校にかよってる白作さんと並ぶ〔柳田先輩の個人誌コンプリートにんげん〕でもあるが、まさか
「ネブ、でかしたぞ、このアンケートはおそらく答えたものがちだっ、柳田先輩さまに忍さま全面参加のおすいこ本をつくらせようっ!!」
「やっタぁぁー、あ、字のバランスだいじョぶデすか」
「ばかにするなよ、ひらがな何年書いてると思ってるんだ、ひらがなならわては完璧美だっ!!」
「あ、ずるいっ、ずるいっ、ふたりともっ」
 アンケート用紙にどしどしと書き込むふたりをわたわたと見て慌てる績美。
「牛ちゃんのほうがずるいっ」
 ふたりはそう言いながら忍の走り描きの牛イラストを笑いながら指さした。
「――ゴルバチェワも、うらヤまシがってまスよ!!」
「ネブっ、やめろっ!!」
 魚のしょうゆ入れ・ゴルバチェワの顔が牛イラストに近づくことは、許可行為に当てはまるとはされなかった。



(2014.04.20 氷厘亭氷泉)