えんすけっ! 雀と牛乳

「おやゆびとひとさしゆびの間の筋肉が、無理って言ってる、無理って言ってる」
 野間果数実(のま かずみ)は、右手の親指と人差し指を思いっきりひらくと、「痛ててっ」と小声を出してすぐにひっこめた。
「そんな具体的すぎる断り方、やめっ!!」
「だって、母指内転筋がっ、母指内転筋がっ、ボシナイテンキンがっ」
「鉄アレイなんか常に持ってるからっ」
 日野寿(ひの ことぶき)はそう言うと、頭をぷりぷりさせながらケース入りの分厚い本を手に取ろうと背のびをする。

「……ちゅ、ちゅうと半端……な、メチャ高さが一番イヤなんだよ……ッ」
 百貨店のこの書店の本棚のスッと取れそうで取れない高さを、寿はとても嫌っている。
「ならべ方が悪いんだってのっ……よっ……と」
 やっと本をつかみとって、引き出すことが叶う。
「……取れたぁ」
「いやいやいや、この分厚さはとんでもないよー、おやゆびとひとさしゆびの間の筋肉が、無理って言うよー」
 果数実は、無事に両手で本をキャッチしおえた寿を見つつ、少し笑って言う。
「書棚はみんな、苦なく届く高さに法令で定めて揃えて欲しいわ」
 そうつぶやく、寿の顔はいたってマジメだ。
 むしろ、立法府は何をしているのぢゃ、といった勢いのおもざしである。
「ぶっきーが欲しがるような本は、なかなか、まったいらな売り場には並べてないもんね」
「そんなことないわよっ!! 一冊あったわよ」
「えっ、そんなのある〜?」
「ドーンと置いてあるでしょ、ほらっ」
 そう言うと、寿はレジの近くにある陳列台に重なってる本の一角をゆびさした。
 そこには、新しく出たまんがの本や文庫本、手提げやお皿など大きなおまけのついてる本などなど、世間でよく売れてる品々が表紙を天井に向けてピカピカと平積みされてる。
「いったい、どれ?」
「あるでしょ、ほら!! そこ」
 寿は、歩きながら陳列台の一角をゆびさして、そのままレジに向かって歩いていった。
 うしろをついていった果数実がそこを見てみると、赤と白のカラーの表紙に変な生命体のようなものが描かれてる。
「あぁー、これ、あの、変な虫の……牛乳の本!!」

 どこかで見たようなその変な虫は、『病形図』という古い絵巻物に描かれてる虫の絵で、病気を具象化したヤマイの虫である。アクチユ牛乳という乳業会社が展開してる製品にもその画像は使われており、何冊かつみあげられてるこの本は、同社が出した自社製品のレシピ本である。

「こんな本出てたんだ……アクチユ牛乳健康ミルクこんだて……むむむむむ」
 表紙のタイトルをスーッと眺めた直後、本の帯に印刷されてるアイスクリームとヨーグルトの写真(いっぱい)とにらめっこを開戦させる果数実。
「――そう、あの迷信企業の本よ」
 寿は、レジを待つ列に並びながら、外道術師に対峙する聖者のような、あわれみのまなこで積まれた本を見ていた。




 吉川観保(よしかわ みほ)は百貨店のエスカレーターをのぼっていた。
 催事場の広告、よくわかんない展示の広告、来月の広告、茄子の広告。エスカレーターの脇に貼ってある掲示をボーっと見ながら、ずーっと上の階までのぼってゆく。
「花ぴらに雀の模様がいちばんいいな」
 茶道具コーナーに飾られてる小屏風を眺めながら、観保は想像を膨らます。
 この百貨店の7階にある茶道具コーナーは、つぼみ(おしるこ屋さん)と並んで、ここ最近の観保の出没ポイントのひとつだが、あくまで想像を膨らませるだけで、百貨店のマークが刷り込ませてある名刺サイズの値札には余り目の玉を向けないようにしてる。
「でもあの寸法だからいいわけで、着物を掛けるとしたら……うーん……」
 観保の頭の中では、小屏風が大きな屏風に引きのばされてるが、同時に他の調度品も、同じ倍率だったり、縦に倍だったりに伸びてしまいヘンテコな空間が展開しだしてる。
「だめだめだめ……、これじゃあ気まま過ぎるわ……、よし……」
 脳内室内のパースが破綻しはじめたので、観保は腕ぐみをしたまま茶道具コーナーをあとにして、すぐ脇にある階段を使って下のフロアに降りてゆく。
「花ぴらの上に、枝を1本、一文字にとおせばいい形に背景がつくれるかもしれないから……んー」
 観保は、描く絵の背景の調度品や小道具ひとつひとつにも細かく時代設定と季節感覚をつけることに注意を振りまき過ぎたその上で、どのように描くかを決める〔こだわりの性格〕があるので、ひとつひとつがどのような形のものか、どこに置くのか、どう見えるのか、脳内でキッチリ配置図が完成するまで、このような作業が展開されるのだった。
 もちろんそのあと、どういう筆法で描くか、彩色するか、ぼかすか、が様々に分岐していくのだが、そのあたりは土台が出来ればあとは気まま自動に決まるらしく、脳の中から紙の上の下描きに至るまでの時間のその多くは、キッチリ配置図の落成式までに費やされてる。

 観保は階段から書店のあるフロアへと足をおろして、腕くみをしたまま、つっつっと進む。
「右下……右下……」
 美術書の並んでる本棚の一番下の段、他の段より背を高くとってあるスペースへと目を向けて、順々に背表紙を見てゆく。
「おあッ――」
 屏風や着物の図案がいろいろと載ってる大きな本をパッと拡げる。
 どこのページに大体どのような図案がいるかは把握してるようで(=立ち読みしてる歴が長い本だから)すぐに意中のページがひらかれる。
「をあッ――」
 嘆声のみしか発せられてないが、その音は本を手に取った時のものとは明らかに音質が違うとすぐわかる。
「だ……この高さの屏風で雀に使ってるのは竹だったかぁ……」
 いい参考図案に到達できなかったせいか、腕くみのまま美術書の並んでるコーナーから出て来る観保。
 そして、その声はあわれみのまなこでヤマイの虫の本を見る寿と、それを見てクスリと微笑む果数実の耳にも、かすかに届いた。

「……ぶっきー、あのひと今なんかマンボみたいな音だしてたよ」
「あれは悟徳学園の吉川観保よ」
「よしかわ……?」
「まるっきし部員が居なくて、部費の無駄づかいみたいなあの部活の部長よ」
「……た、鷹匠部?」
「違うわよ、び・じゅ・つ・部」
「あ、あぁ〜。さすが、毎朝校門に立ってる冷血監視美少女・日野寿さんだけあって、生徒の顔はくまなく知ってるね」
「冷血って何、余計な字でしょ」
 寿はそう言うと、「おつぎにおまちのおきゃくさまー」の声に召喚されてレジへと進んでいった。
 その「おつぎにおまちのおきゃくさまー」の3番目の「お」にかぶさるかたちで、観保はふたたび良い方の嘆声をあげていたのだが、かぶっていたので果数実の耳にも寿の鼓膜にも到達してなかった。



「冷血って何、余計な字でしょ」
 レジで会計を済ませて戻ってきた寿が、微笑みながら冷たい口調で言う。
「欲しかった本を会計しおえた喜びでもう相殺されてるかと思ってたら……忘れないね、ぶっきー……、でもさ、知らなかったよ、あの高島さん家の本なんて出てたんだね」
「わたくしも全然知らなかったわ」
 あわれみのまなこで、思いっきり、本を見る寿。  高橋さんというのは、寿や果数実たちとおなじく悟徳学園にかよってる2年生の生徒で、そのアクチユ牛乳という乳業会社の社長令嬢である。別のクラスなので関わり合いはほとんど無いが、
「この前、妖怪研究会たちが何人かこれ小脇にかかえてたのよ、こんな悪書を携えてるなんて全くもって……」
「ぶっきーは買ったの?」
 果数実がたずねると、寿は眉毛をイラっと上げつつ、まぶたをとじた。
「あれっ、ぶっきーが欲しがるような本が、たいらなトコに並んでるかどうかって話だったよね、確か。買ったの?」
 気分いやいや振ったという速度で、寿はコクンと首を縦に振った。
「まるっきり栄養価の効果が関係なさそうな中身のデザートとかにまで、このレシピだと悪虫たちが弱まる!! とか、退治できる!! とか書いてなければ、……れば!! ね!!」
 寿は、トートバッグの中からその悪書――アクチユ牛乳健康ミルクこんだて――を取り出すと、クリームやヨーグルトを使ったデザートがいくつも紹介してるページをバッと開いて果数実に見せた。
「あ、なるほど。おいしそうだったわけ」
 果数実が少しあきれながらそうきくと、寿は眉毛をイラっと上げつつ、まぶたをパッとあけ、またとじた。
 寿がまぶたをとじてたそのときに、観保は『アクチユ牛乳健康ミルクこんだて』をレジで買ってたのだが、とじていたので寿の網膜にはまったく到達してなかった。――妖怪研究会だけではなく、吉川観保の小脇にもこの本が確認される休み明けの朝は、もうすこし先の未来であった。



(2014.03.23 氷厘亭氷泉)